基本図書を読む32『ニルスのふしぎな旅』セルマ・ラーゲルレーヴ


今月の基本図書として取り上げるのは、スウェーデンの女性作家で、1909年にノーベル文学賞も受賞しているセルマ・ラーゲルレーヴ(1858~1940)の書いた『ニルスのふしぎな旅』(上・下巻 菱木晃子/訳 ベッティール・リーベック/画 福音館書店 2007)(原題『ニルス・ホルゲルソンのふしぎなスェーデン旅行』)です。この作品は、スウェーデンで上巻が1906年、下巻が1907年に出版されました。

父親の影響でスウェーデンの文化に親しみを持ち、スウェーデン語の翻訳家になった菱木晃子は、この作品に携わるために、8年をかけてスウェーデンの地理や歴史を学び直したということです。(下巻「訳者あとがき」より)

ニルスのふしぎな旅〈上〉 (福音館古典童話シリーズ 39)
セルマ ラーゲルレーヴ
福音館書店
2007-06-20

 

 

ニルスのふしぎな旅〈下〉 (福音館古典童話シリーズ 40)
セルマ ラーゲルレーヴ
福音館書店
2007-06-20

スウェーデン南部の村に住むニルスという14歳の少年は、怠惰な上に乱暴者で、学校でも家でも問題児でした。ある春の日、ニルスは両親が教会に出かけている間に、家の中でトムテ(小人の妖精)を虫とり網で捕まえ、からかったため、トムテの怒りをかい、小人の姿に変えられてしまいます。

小人になったニルスは、家で飼っているガチョウのモルテンが、ガンの群れと一緒に北へ飛んでいこうするのを止めようとして飛びつき、そのままモルテンと共にガンの群れに加わって飛び立ちます。その後、群れを率いるアッカに認められ、ラップランドへ向かう旅について行くことになりました。

この冒険の旅は、3月20日に始まり、11月9日に終わる55章の物語として描かれています。小人になった途端に動物たちと会話ができるようになったニルスは、旅の中で出会うさまざまな出来事を通して、互いに尊重し合い、助け合うことの大切さを学んでいきます。家畜にさえ悪戯をしていたニルスですが、知恵をはたらかせてリスの親子を助けたり、キツネからガンの群れを守ったりするなど、しだいに動物たちからの信頼を得ていきます。途中、ガンの群れからはぐれますが、動物園に捕らえられていたワシのゴルゴ(ゴルゴは幼鳥の時に親を亡くしアッカに育てられています)を救い出し、最北の地ラップランドにいたアッカたちに再会します。

夏の間、ラップランドで過ごしたニルスとガンの群れは秋の訪れとともに、故郷の村へと戻ってきます。小人になってしまった今は両親の前に姿を見せられないと、再びガンと共に旅を続けたいというニルスでしたが、両親に捕まえられ祭りの供え物にされそうになったモルテンを救い出そうとして、妖精の魔法がとけ、元の少年の姿に戻るのでした。

この作品は、「子どもたちに自分の国の歴史や地理について楽しみながら学んでほしい」という狙いで、副教材としてラーゲルレーヴに執筆の依頼があり、書かれたものです。私はそのことを、出版を記念した訳者菱木晃子の講演会で伺いました。

そのあたりについて下巻の「訳者あとがき」にも詳しく記されています。

“「スウェーデンの地理にふれながらも、物語として子どもたちが楽しめる本にしたい」という意気ごみのもと、ラーゲルレーヴはこの仕事をひきうけました。そして周到な準備をはじめました。地理、歴史、動植物に関する文献を読み、各方面からの提案や意見に耳をかたむけ、自らの足でスウェーデン各地を取材してまわったのです。”『ニルスのふしぎな旅 下』(福音館書店) p526~527

そうした材料がそろう中、どのような作品にするかを思い悩んだ末、イギリスのキップリング(『ジャングル・ブック』の作品などがある)の作品にヒントを得て、動物たちを擬人化すること、トムテ(小人の妖精)の言い伝えを踏まえて、『ニルスのふしぎな旅』が紡ぎ出されていったのです。

”ここにようやく、ラーゲルレーヴは主人公の男の子をトムテの姿に変えて、ガチョウの背中にのせ、スウェーデンじゅうを旅させることを思いついたのでした。これは、ほんとうにすばらしい思いつきでした。空から地面をながめること、つまり国土を鳥瞰図としてとらえることは、地理の教科書にはもってこいの手法だったからです。もちろん、この設定は物語の導入としても、子どもたちの興味をひくのに十分なものでした。”

 この作品は、副教材としてだけでなく、物語としての面白さが評判となり、大人たちにも読まれるようになり、海外へも広まっていきます。

 
日本では大正半ばの1918年に、原作の一部が香川鉄蔵により翻訳され『飛行一寸法師』と題して大日本図書から出版されています。その後も多くの出版社からこの作品は出版されますが、とても分量が多いためいずれも抄訳に留まっていました。1958年に、香川鉄蔵はラーゲルレーヴ生誕100周年祝賀行事にスウェーデンに招待されたのを機に、完訳することを目指します。しかし完成をみるものの、病に倒れてしまいます。その志を継いだのが息子の香川節で、父の訳出したものを現代風に改めるなどして完成させ、1982年に偕成社から全訳版として出版されました。
 偕成社から出版された全訳版は4巻に分かれています。挿絵は、原作と同じリューベックのものが使われています。そのあたりの経緯については、村山朝子の著書『『ニルス』に学ぶ地理教育―環境社会スウェーデンの原点』(叢書 地球発見3 ナカニシヤ出版 2005)に詳しく記されています。(第1章2「完訳までの長い道のり」p19~31)
『ニルス』に学ぶ地理教育―環境社会スウェーデンの原点 (叢書・地球発見)
村山 朝子
ナカニシヤ出版
2005-12


 
 
その後、この作品がたいへん優れているにも関わらず分厚い2冊組で本に親しんでいる子でないと手に取らないこと、内容的には小学校中学年くらいの子どもたちに読んでほしいということから、福音館書店から2012年から2013年にかけて絵物語「ニルスが出会った物語」シリーズが出版されました。
長い物語のうち、独立して読んでも楽しめる6つのエピソードにしぼり、児童書の挿絵などで子どもたちから人気のある平澤朋子が絵をつけており、とても親しみやすいものになっています。このシリーズを出版するために、菱木と平澤はスウェーデン旅行をし、実際に物語の舞台を歩いたとのことです。
どの物語も美しい絵がふんだんに使われており、長編に挑戦する前の小学校中学年の子どもたちに最適のシリーズです。


 なお、菱木晃子の公式サイトには「『ニルスのふしぎな旅』を訳して―翻訳こぼれ話」の特集ページがあり、実際に物語に出てくるスウェーデンの町や村、建造物の写真もたくさん紹介されています。(菱木晃子公式ホームページ→こちら 「『ニルスのふしぎな旅』を訳して」のページ→こちら

『ニルスのふしぎな旅』は、今から110年ほど前に書かれた物語であるにも関わらず、前出の村山朝子『『ニルス』に学ぶ地理教育―環境社会スウェーデンの原点』でも指摘されているのですが、早くから環境保全に対する考え方がきちんと記されているのです。

たとえば製鉄所が出来たばかりに棲家を追われるクマについて書かれている28章「製鉄所」では開発か自然保護かということを考えさせられます。また、山火事で木が焼けてしまったところへ植樹する子どもたちを描いている39章「イェストリークランド地方をこえて」では、“木が育ち、森ができれば、このあれはてていた山に、虫が飛びまわり、オオヨシキリの歌声が響きわたり、ライチョウがおどり、すべての命あるものがよみがえります。そうです。これは、つぎの世代のための記念碑のような仕事です。なにもしなければ、裸の山しか残せなかったでしょうに、この仕事のおかげで子孫にりっぱな森をゆずりわたせるのです。”(下巻 p233~234)と、環境を保全することの大切さをさらりと記しています。

またニルスが人間に戻る前に最後にガンのアッカとことばを交わすところでは、アッカに”「いいかね。おまえがわたしたちといっしょにして学んだことがあるとすれば、人間はこの世に人間だけで暮らしているのではないということだろう。人間は広い土地を持っているのだから、自然の岩礁、浅瀬の湖、沼、湿地、未開の山、人里離れた森を、わたしたちのような貧しい生き物が安心して暮らせるように、少しくらい残してくれてもよいと思うのだ。若いころから、わたしは追われてばかりだった。わたしのような者にも安心してすごせる場所が必要だということを、知っていてほしいのだよ」”(下巻53章「ヴェンメイヘーイ丘への旅」 p503)と、言わせています。

作者のラーゲルレーヴは、1858年にスウェーデン中南部ヴェルムランド地方のモールバッカの旧家富農の娘として生まれました。女子高等師範学校を卒業し教師をしながら、小説を書き続けていました。1890年に『イェスタ・ベルリング物語』を書いてコンクールで1等になったことから、作家活動に専念し、1909年にスウェーデン人として、女性として初のノーベル文学賞を受賞しています。

この作品を書いた頃は、イギリスに始まった産業革命の影響で工業が盛んになっていた時代です。急な発展の陰で、自然が破壊されていくのを見ていたのでしょう。子ども向けの作品のなかに、こうした鋭い視点を盛り込みつつ、ニルスが冒険を通して人間的に成長していく様子を、子どもたちの心に沁み渡るように描いており、大変読み応えのある作品です。偕成社の全訳版と合わせて、子どもたちに読んでもらいたいと思います。

(作成K・J)